我慢強いね、と言われた朝
めったに褒めることのない夫が珍しくつぶやいた。
「えらいね」と。
テレビに対して言っているのかと思ったら、私に向けて話していたらしい。
「本当に我慢強いね」と。
その日の朝、娘は保育園に行きたくないと、ぐずっていた。
どうして?と聞いても、楽しいよ、と言い聞かせても、嫌だ嫌だの一点張り。
「じゃあ保育園に行く前にパン買いに行こう」というと、娘は急に張り切って着替えを始めた。
それを見て夫がいったのだ。「君は我慢強くてえらいな。おれなら泣こうがわめこうが連れて行く」と。
パンで娘をつった私のやり方がいいのか、夫のやり方がいいのかはわからないが、
その時、私にはその「我慢強いな」が妙に残った。
確かに小さな頃から私は我慢強かった。わがままはあまりいわなかった。
親が厳しいわけじゃなかったが、姉としていつもがまんしていた気がする。
会社に入ってからも、結構きつい仕事も我慢してやり遂げた。
子どもが産まれて仕事に復帰してからも子どもに当たることはなかった。
今も私の娘への態度をみて、夫だけでなく、両親や妹も
「あなたはよくやっている」という。
私には、我慢している、という意識はない。
気づいたら、そういうもんだ、と思ってやっているだけだ。
娘に対してしかるべきはしかるが、自分の感情にまかせて子どもを怒ることはしない。
ただ、ふと、思う。
我慢強いって、損してないか?
産後、子宮内に何かが残っているとかで産婦人科で施術を受けたことがある。足を開いて座らされ、かなり長いこと痛みが続いた。
痛すぎて、時々意識が遠くなりそうだったがずっと我慢した。
すると医者が「あなた我慢強いね。だから麻酔使わずにやっちゃいましたよ」いう。他の患者ならとっくに根を上げますよ、といわんばかりの言いぶり。
私は啞然とした。
痛い、つらい、やめて、と言えば、麻酔を使ってくれたというのか?
あれ以来、我慢強いことは損なんじゃないか、と思い始めた。
そこへきて、最近話題の「お金2.0」(佐藤航陽)
著者は言う。
誰でも子どもの頃に何かに熱中した経験があるはずなのに、義務に縛られるうちに、表面に膜が積み重なって、自分が何をしたかったのかも思い出せなくなるんだ、と。それが、人の心がさびる、ということだと。
「やりたいこと」より「やるべきこと」を優先するうちに、いつのまにか本当は何がやりたいかわからなくなってしまう。
私にはずっとそういう自分にコンプレックスがあった。
「やりたいこと」より「やるべきこと」を優先するってことは、私が我慢強いからだと思う。
痛くても我慢しなきゃいけない。
眠くても、授乳しなきゃいけない。
休みたくても、仕事に行かなきゃいけない。
世の中、そんなことばかり。
それが変わるんだ、と、この著者も言いたいんだろう。
確かに、私の心はさびてるのかもしれない。
そのことを一日中やっていても飽きないこと。
夢中になれること。
そういうものをもう一度、ゼロベースに向き合ってみることから、さびははがれるのかもしれない。
我慢強さを持ちつつ、でも自分の好きなことに向き合える素直さを。